改革なくして、発展なし知識を武器に未来を切り拓いてください体力的に最もきつかった時期ですが、おかげでたくさんのお客さまに恵まれました。 しかし、ブームは長くは続きません。さまざまな娯楽が増え、余暇の過ごし方が多様化するにつれ来店客が急激に減っていったのです。残念ながらオープンから4年余りで閉鎖が決まり、最後に会員の皆さまとパーティーを開催し、別れを惜しみました。経験ゼロから不動産のスペシャリストへ ボウリング場の閉鎖後は、1978年に設立された西部ガス不動産株式会社への出向が待っていました。不動産業なんて初めての経験です。西部ガス施設の用地買収を担当することになり、地主さんと交渉するのですが、交渉がうまくいっても、それ以降の手続きがよくわからない。 知識不足を痛感し、そこで、当時不動産関係で最も難しかった資格である不動産鑑定士をめざしました。100人受けて合格者5人程の難関資格です。2年間、土日は学校に通い、3年目に合格できました。この頑張りが、「他の不動産業界の人と話しても知識で負けることはない」という自信につながったし、信用が生まれたのだと思っています。 会社として大きな転機となったのは、用地買収から建設まで携わった物流センターの開業です。これを契機にバブル景気の時代背景もあり、当社の事業は拡大していきました。土地を買って西部ガスの施設やスポーツセンター、テナントビルを次から次に展開し始めたのです。忘れもしない、天神NKビルの購入 不動産事業で印象深いのは、天神の一等地にある「天神NKビル」を購入したことです。当時は用地買収や施設建設などで銀行からの借り入れが多く、本当は、数十億円もの資金を動かす体力はなく、身の丈以上のことでした。正直に言うと、怖かったです。それでも将来のために社長にお願いしました。外部収入を得る企業へと脱皮し、不動産業界において認知、信用してもらうために。そして何より、天神のど真ん中に当社の不動産事業のシンボルとなるビルを持つことで、社員の誇りとなると思ったのです。 購入すると、社員みんなが喜んでくれて、嬉しい気持ちでした。満室のビルのテナントは、ほとんどが西部ガスグループ以外の企業です。目標だった「ガスのウエイトを低くし、外部から収入を得る事業へシフトする」を加速させたと考えています。いつまでもガスに依存するのではなく、グループ企業として自立し、ガス事業に寄与する。それが、夢だったのです。将来を左右することには意見する勇気を これまでさまざまな事業に携わってきたなかで、上意下達の時代、上司の命令にはよほどのことがないかぎり反論しませんでした。全員が同じ方向を見ていたこともあり、やると決めれば全員で、スピード感を持って取り組んでいたからです。ただ、将来に影響を及ぼすことは、上司を説得することも大事。ビル・スポーツ施設の企画設計など、意見具申して変更してきたことは数多くあります。 特に施設は一度建設すればその後30年は使うもの。皆さんも、上司を説得する勇気を持ってください。 そして当社のように長い歴史があり、長く続けた事業があると、善し悪しは関係なく昔のままでいるのが最も平穏です。しかし改革なくして発展はありません。既成概念をなくして、どんどんチャレンジしてください。知識を武器に未来を切り拓く姿を応援しています。渡邉 幸夫Watanabe Yukio1965年西部ガス株式会社入社。1972年株式会社シティサービスに出向し「カスガ・ブルーレーン」では技術部門を担当。後に支配人に就任する。西部ガス興商株式会社事業部長、不動産部長などを歴任し、2001年に取締役、2005年に常務取締役に就任。2009年専務取締役。2010年6月退任。天神NKビル(購入当時)33
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